「アイアンマン」とアフガニスタン

娯楽映画としてはよくできている「アイアンマン」にツッコミ入れる野暮は承知。でも、娯楽映画といって笑うには、それは現実の世界にリンクしすぎている。
今そこにある地獄の辛酸を思う時、「アフガニスタン」という地名が出てくるのはやはり胸が痛む。製作者は敵は国際的なテロリスト組織(多分、アルカイダがモデル)ですって言い訳をするつもりだろうけれど。それにしても…
無造作に社長ロボに殺されていく彼らの下っ端は、悲惨な難民キャンプの中から産み出されてきた。サディストとして描かれる彼らの首領たちを別としても、彼らが雇った下っ端連中たちは、無辜の民として描かれる避難民たちと、それほど差異があるわけじゃない。そこに無造作に介入して、おそらくはリンチが起こるであろう状態にするのが「正義」なのか?
この映画における武器製造の放棄の論理は、「米国の敵に武器がわたるから」であって、「武器そのもののもつ罪悪、他者の生命を奪うから」ではないことを、注意して見ておかなくてはいけない。(まーそうでなくては、悪の手に渡ればさらに惨い災厄をもたらすであろう強力なスーツの製作なんてできないやね。)
ものすごく穿って考えれば、このバカ社長の行動そのものが「アメリカ」のカリカチュアライズした自画像で、彼の行動がいかに愚かであるかという風刺ととれないでもないけれど。まあ、そんなことは考えてないだろう。

アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだアフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
Mohsen Makhmalbaf 武井 みゆき 渡部 良子

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たとえば、アフガニスタンにおけるバーミヤン遺跡の大仏の破壊の問題なんかを考える時には、こういう本も読んでおかなくちゃいけないと思う。
他国において、様々な障害を越え遺跡の復元に尽力されている方々の苦労には頭が下がるものの。仏像を破壊しなければ飢餓のアフガニスタンに目もくれなかったではないか、という非難は確かに理があるのだ。