ぱどメは網ダラになるのか

今、各所で話題のばどタウンについてである。
発信元はこちら。
http://homepage3.nifty.com/kazano/diary.html
風野さんによる、まさに文化人類学的手法での異文化のリサーチというか、フィールドワークというか。お疲れ様です、といった感じ。
実は私にはこのコドモタチのセカイは、わりとよく見ていた風景のような気もするのだ。「交換日記」に近いものがあるんだろうなあ。<コミュニケーションのためのコミュニケーション。
で、「交換日記」をするような特別な「親友」を、簡単に奪られては困るわけで。友だちの友だちがまた友だちになるような開かれた循環ではなく、一対一の隠微な世界において互いに秘密を共有することだけが絆となる個々の結びつきだからだ。
共有する秘密とやらが、大人の目からみてなんの価値もなさそうに見えるし、ネット上にさらしておいて、秘密もなにもないだろうと思えるだけだ

http://kaiho.main.jp/pukiwiki/pukiwiki.php?cmd=search&word=LazyCozyDiary%2F2004-06-18%2F%A4%D1%A4%C9%A5%BF%A5%A6%A5%F3%A4%CE%BB%D2%B6%A1%A4%BF%A4%C1
海法さんのこの指摘はよくわかる。しかし、これは大人になってからインターネット的なリテラシーや基本的なルールをまさに切り開いてきた人間たちの感覚かもしれない。
コドモタチにとって、インターネットは第二の自然だ。昆虫を採集するように、道端に咲いている野の花を摘むように、ネット上にある「モノ」をコレクションする。当然「神様ありがとう」くらいの感覚すらもなく…。
小松左京がいみじくも「未来の思想」の中で語ったように、彼らの世代にとっては危なっかしげにみえる社会システムや科学技術を、第二の自然として享受してきたのは我々自身だ。そのカリカチュアされた姿がぱどのコドモタチ。
で、このコドモタチがどこへ行くのか?
いずれ彼らの何割かは「交換日記」に飽きてしまうだろうし、自分たちで「モノ」を作り始めたときに初めて先人や他者に対するリスペクトを学ぶようになるだろう、と思うけどなぁ。あ、もちろん変わらない連中は決して変わりません。
それと誰かがそろそろ「そこに咲いているのは野の花ではなく、誰かが丹精を込めて咲かせた花壇だよ。」って教える必要はある。