笑の大学

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面白いのは面白い。舞台劇を映画になおしたその手腕も含めて。役所広司の演技はとても上手いし、稲垣吾郎もかなりがんばっていた。脚本の間のとりかた、言葉のかけあいだけで笑わせるお手並みはさすが。
さすが、ではあるけれど…。奥歯にもののはさまったような言い方だけど…喰いたりないかなあ…。映画館をでて、その理由をつらつら考えていたけれど、なかなか浮かばない。それくらいになかなか言葉にはしにくい不満なのだが。
「笑いを知らなかった」男が、演劇にひきこまれて、自ら「笑い」を作り出そうとしてしまうまで、頭の硬い国家主義者で、おそらく外地では非情の仕事をやってきた男が、それ以外の世界に目を啓かれるその瞬間がやってくるまで、そのための「バトル」が足りない、のではないだろうか…。向坂が椿の「脚本」で変えられたのと同時に、椿も向坂の情熱で変えられる過程がダイレクトに伝わってこない。……
比較するのは、ちと酷ではあるけれど、同じく演劇を映画にした「アマデウス」のクライマックスにおいて「レクイエム」をサリエリを代筆するあのシーンのごとき、言葉と言葉の緊迫、演技と演技のぶつかりあいが少ない。
そして、向坂が最初から「いい人」でありすぎること。彼らが作っていく演劇が、それほど「面白い」と感じられないところ、それらが足を引っ張っている感じがするんだよなあ。
だから、椿のひとりよがりなネタばらしへの向坂の憎悪がいまいち表現できていない気がするし。それがないからラストのセリフが、活きてこないと思う。
(つかこうへい並の「毒」を、つい期待してしまった、ということもあるかもしれない。似たようなリズムの掛け合い身上の芝居だから。)