仮面ライダー電王 鬼は外、僕はマジ

ネットを徘徊して、先日の「鬼は外、僕はマジ」の感想読んでいたら、「あれでは納得いかない」って言う意見がたくさんあった。私にはとてもしっくりしたんだけどな。(もちろん、過去での破壊がそのまま現在の破壊、という描写自体の変さってのはよくわかるけどね。これはインパクトの問題だから仕方ないでしょー。)
売れないミュージシャンが、最後の賭のオーディションに行くことができずに、不完全燃焼のために「金」の力に頼ってCDデビュー。彼には才能がないから、当然CDが売れない。だからもっと「金」があれば、またCDが出せる…。出せば世間は自分を認めてくれる。この間違ったループの中で、彼は「泥棒」にまで成り下がる。
彼がイマジンにホントに願いたかったのは「俺に才能をくれ」だったのかもしれない。でも、本人は自分の才能がないことを認められない。CDが出せれば売れるんだ、と間違った全能感しかない。だから「本当の願い」に肥大した自我は向き合うことができない。
良太郎は善意から彼をオーディション会場に間に合わせたけれど、彼にとってみればそれは「逃げ道を塞がれる」という厳しいこと。自分で思うほど才能はない、ということに認めるチャンスを与えられた、ということだ。
それがいいほうに向くのか悪いほうに向くのか…それは彼の今後が決める。現状では、ほんの僅かな進歩でしかない。だからオーナーは「何も変わらない」「(リスクテイクして)変える意味がない。」といったんだと思う。善意の導く先を明かにしなかったことが、このシナリオのキモといっていい。
今回のテーマは「金」じゃないんだよ。間違った全能感を捨て去るところから、一歩目が始まる、という考えようによってはとても苦さを含んだお話。クリエイションを目指した人間なら、いや、目指して挫折したことのある人間ならばもっと、誰もが覚えのある葛藤や苦悩。
小林脚本は、右手のコメディで視ている人間の鼻面を引き回しつつ、左手で人間の持つ「願い」と、その合わせ鏡の「後悔」の深さに斬り込もうとしているように見える。(モモタロスデンライナーに目を奪われて「電王」が子供向けだと侮ると、きっと足をすくわれるぞ。)