「忠臣蔵」とヒーロー

博士が怒っていた「ゲキレンジャー」の「忠臣蔵」の回。まあ、東映時代劇とのコラボレーションなので、それ自体は一種の制作側の都合によるお祭りであり、少々創りが雑であろうと、スルーしていいんだけどさ。
忠臣蔵」と現代ヒーローは基本的には相容れない。今度の話は現代(我々が目に触れるところの)「忠臣蔵」という物語が、江戸時代の価値基準を飲み込ませるための技術がいかに施されてきたか、ということをあれこれと考えさせる。そういった意味では大変「興味深い」回だったような気がするのだ。

まず、基本的に「忠臣蔵」は、「現代的」にとらえれば「テロリスト」による私的襲撃の話だ。実のところ、現代で同じことをやれば、極刑すら免れないかもしれない大きな罪である。
裁判の結果に対して不満をもったからといって、個人の家屋を早朝にだまし討ちで襲撃し、罪もない多くの人間を惨殺し、あまつさえ命乞いをする老人をなぶり殺しにする。おお、こう書いていくと、なんか血も涙もないぞ。
だが、物語として「忠臣蔵」の面々をヒーローとするのは、以下の技術だ。

  1. 吉良上野介を徹底的にワルモノ、「いじめっ子」として描く。
  2. 討ち入りというテロ行為そのものよりも、それにいたるまでの過程のほうに時間を割く。「絵図面」の争奪戦など準備の物語が中心で、クライマックスの討ち入りはあくまでも儀式的な話に。(『仮名手本忠臣蔵』はものすご〜く長い話で、中には「四谷怪談」すら含まれているわけで。)
  3. 「敵討ち」のためなら娘を遊女とするなどの非道も、討ち入りの前にすべて正当化されている。(実際、赤穂浪士に限らず、江戸期、明治期の作品にはこういった「論理」は多く、歌舞伎や落語などでも、そういった作品は散見される。)今の時代では成り立ちにくいこの「論理」を現代の時代劇では「目的」を達するための仲間への無私の協力と話をすり替えをすることで成り立たせているわけだ。ちょっと苦しいけど。
  4. 真の「悪者」は不均衡な裁判を行った「幕府」であるとし、「御上」への不満を仮託させるような内容になっている。
  5. 「忠義」のためであり、主君の無念を晴らすというのが目的で、私的な怨恨ではないことを強調している。(でもホントは藩を潰され、職を失って人生が変貌してしまったという逆ギレ気味の「怨恨」だよね。)
  6. 四十七士は、責任をとって全員自刃するので、その悲劇性でテロに関する罪を相殺。悲劇のヒーローに祭り上げる。

ゲキレンジャーのほうは、まずたとえ悪役を演じても、どこか滑稽で親しみを感じさせる役者を使ってしまったため、1を失敗。せめて、怪人が変身したってことにすりゃ、よかったのに。
四十七士がほとんど出てこなかったので2や3も6もなし。幕府の存在も言及されないので4もなし。5は一応の説明をやっていたけど、説得力がほとんどなし。喧嘩両成敗の本当の意味わかってるのかな。悲劇性もなく、そして、ゲキレンジャーたちの脳天気な反応だけが残るので、メチャメチャ後味が悪くなるというわけ。ふう。

数年前NHK大河で「忠臣蔵」をやったら、若い人に「討ち入りは本当に成功するの?」って聞かれたっていうエピソードがあるくらい、もう死んじゃった「話」なんだよねぇ。この「忠臣蔵」。
だからゲキレンジャーのメイン視聴者であるよいこのオトモダチは、なにがなにやらさっぱりわかんない話になっただろうし。忠臣蔵をちゃんと知っているような大きなオトモダチには、「なんじゃこりゃー」な話になっちゃうわけで。
うーん、博士じゃないけれど、確かになんでこんなの放映したのか、ちーっともわからない。
いや、「忠臣蔵」ってホントはこんなに酷い(むごい)話だったんだよ、って言いたかったのか。

ふと思った。
忠臣蔵」の面白さは、みんなで苦労を越えてひとつのプロジェクトを為していくことだ。うーん、「プロジェクトX」とは現代の「忠臣蔵」だったのか。